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静岡県・中部 東部


すんぷじょう

駿府城 (静岡県静岡市葵区駿府城公園)
天守:なし  日本100名城
戦国期の主な歴史
14世紀 駿河守護・今川家によって今川館が造られる。
1536年 花倉の乱。勝利した今川義元が今川家の家督を継ぐ。
1560年 桶狭間の戦いで義元が討死。氏真が今川家の家督を継ぐ。
1569年 武田信玄が駿河に侵攻。武田家の駿河支配の拠点となる。
1582年 武田家滅亡。徳川家康の支配地となる。
1586年 徳川家康、駿府城を築城し、浜松城から居城を移す。
1590年 徳川家康、関東へ移封。豊臣家臣・中村一氏が城主となる。
1601年 徳川家臣・内藤信成が城主となる。
1606年 内藤信成、長浜へ移封。
1607年 徳川家康、江戸城から駿府城へ移る。
1616年 徳川家康亡くなる。
(メモ)
天下人・徳川家康終焉の城。建造物はすべて復元だが、石垣と堀は、なかなか立派。
2020年2月まで発掘調査が行われている。発掘現場からは豊臣時代の金箔瓦などが見つかっている。
毎年11月はじめに開催される「大道芸ワールドカップ」ではメイン会場のひとつとなる。
東御門と巽櫓(復元) 東御門(復元) 坤櫓(復元)
慶長期(家康大御所時代)の石垣 豊臣時代の石垣



りんざいじ


本堂(重要文化財)
大龍山臨済寺 (静岡県静岡市葵区大岩町) 
 今川家の菩提寺。享禄年間(1528~1532)に今川氏親が、子で出家した梅岳承芳(のちの今川義元)のために氏親の母・北川殿(北条早雲の姉)の別邸跡地に建立した善得院が前身で、梅岳承芳の教育係として太源雪斎が入寺した。
 1536年、今川氏輝(義元の兄)が亡くなり、花倉の乱を経て梅岳承芳が名を今川義元と改名して今川家の家督を継ぐと、善得寺を氏輝の法名に由来する臨済寺と改め、正式に太源雪斎を住職(2代目)として招いた。
(メモ)
太源雪斎は今川家で人質時代を過ごした竹千代(のちの徳川家康)の教育係もつとめている。
寺内には竹千代が教えを受けた「手習いの間」がある。だが、普段は公開されておらず、春と秋の2回だけ一般公開されている。

境内には小田原征伐後に10年間ほど駿河領主となった中村一氏の墓もある。
山門 今川家廟所 太源雪斎の墓



くのうざんとうしょうぐう


拝殿(国宝)
久能山東照宮 (静岡県静岡市駿河区根古屋)
 武田信玄が築城した久能城に造営された神社。
 天下統一を果たした徳川家康は、大御所として駿府に在城していた際、「久能山は駿府城の本丸と常に思う」と語っていたといわれる。
 1616年、家康が亡くなると、その遺命により久能山に埋葬され、2代将軍・秀忠が社殿を造営した。その後、3代・家光の時代にも建造物が増築されて現在に至る。
(メモ)
 家康の亡骸は、久能山に埋葬されたのち、一周忌を経て日光へ移された。
 本殿、石の間、拝殿が国宝、ほか多くの建造物が重要文化財に指定されている。
 日本平からロープウェイで簡単に行けるが、表参道から登ろうとすると1159段の石段が待ち構えている。
唐門 楼門(重要文化財) 神廟
城跡の名残
 
久能山東照宮博物館

<見れた展示物> 
紹介している展示物は常に見れるとは限りません。

徳川家康所用 伊予札黒糸懸威胴丸具足 (重要文化財)
 大黒頭形兜に歯朶の前立で有名な通称「歯朶具足」と呼ばれるもの。天下分け目の戦い・関ヶ原合戦で徳川家康が着用したと伝わる。

徳川家康所用 金陀美具足 (重要文化財)
 19歳の家康が、桶狭間の前哨戦、大高城への兵糧入れで着用したという具足。名前のとおり金一色で統一されている。

徳川家康所用 白檀塗具足 (重要文化財)
 金陀美具足の召し替え具足。金陀美具足との共通点が多い。

太刀 無銘 光世作 (重要文化財)
 「ソハヤノツルギウツスナリ」という文字が刻まれている家康の愛刀。大阪夏の陣後、まだ不穏な動きを見せる西国へ向けて自分と共に埋葬するよう遺言したというもの。

火縄銃 清堯作 (重要文化財)
 徳川家康のお抱え鍛冶・野田清堯作の火縄銃。清堯は刀工としても名を馳せた。

金扇馬標
 徳川家康が愛用したという大きな金扇の馬標。関ヶ原でも使用したと伝わる。



こやまじょう


模擬天守

丸馬出
小山城 (静岡県榛原郡吉田町)
天守:模擬天守
戦国期の主な歴史
築城年は不明だが、今川家によって山崎の砦が築かれていた。   
1569年 武田信玄の駿河侵攻後、武田・徳川両家の争いの場となる。
1571年 武田方として落ち着き、馬場信春によって大改築される。  
1582年 高天神城の落城を受けて、城兵が撤退。徳川の手に落ちる。
(メモ)
天守は犬山城を模して造られた模擬天守で、中は資料館になっている。
武田流築城の特徴である三日月堀、丸馬出を見ることができる。   
吉田町といえば、大井川の「うなぎ」でしょう!     



すわはらじょう

 
案内板の縄張り図
諏訪原城 (静岡県島田市金谷)
天守:なし  続日本100名城
戦国期の主な歴史
1573年 武田勝頼が遠江攻略の一環で築城。普請は馬場信春
1575年 長篠の戦い後、徳川家康の手に落ち、高天神城攻略の拠点となる。
1581年 高天神城の落城により役目をほぼ終える。
1582年 武田家滅亡により存在意義がなくなる。
1590年 家康の関東移封にともない廃城。
(メモ)
武田流築城術の特徴である丸馬出をはじめとする遺構がかなりの規模で残っている。
武田時代、小山城と共に高天神城への補給線を確保する重要拠点だった。
二の曲輪北馬出の門(復元) 二の曲輪大手馬出 二の曲輪中馬出



たなかじょう


本丸櫓(現存 移築)

復元された三之堀と馬出
駿河田中城 (静岡県藤枝市田中)
天守:なし
戦国期の主な歴史
1537年 今川家によって築城される。
1570年 武田信玄によって落城。山県昌景が入城する。
1572年 山県昌景、西上作戦に参加。以後も城代がおかれる。
1582年 徳川家康によって落城、その支配下に入る。
1590年 家康、関東移封。駿河城主・中村一氏の支配下に入る。
1601年 徳川家臣・酒井忠利が1万石で入城する。
(メモ)
徳川家康が、死因とされる胃癌の腹痛を初めて訴えた城といわれる。
田中城下屋敷に現存本丸櫓が移築されている。
城跡が町中に点在しているため、自転車があると便利。



こうこくじじょう


石碑と案内板
興国寺城 (静岡県沼津市根古屋)
天守:なし  続・日本100名城
戦国期の主な歴史
1487年 北条早雲今川氏親の家督相続での功績で城主となる。
1493年 早雲、伊豆討入り。居城を韮山城に移す。
1536年 第一次河東一乱。北条氏綱今川義元から奪い支配下に置く。
1545年 第二次河東一乱。北条氏康武田信玄の仲介で、今川義元へ返還する。
1568年 信玄の駿河侵攻。今川方として北条氏政も侵攻してその支配下に置く。
1571年 北条氏康没。氏康の遺言で甲相同盟成立。武田家の支配下となる。
1582年 武田家滅亡。徳川家康が支配下に置く。
1590年 家康、関東移封。豊臣家臣・中村一氏の支配下となる。
1600年 関ヶ原の戦い後、徳川家臣・天野康景が一万石で入城する。
1607年 領内問題で天野康景が出奔。廃城となる。
(メモ)
北条早雲旗揚げの城。遺構はしっかりと残っている。本丸の土塁は稀に見る大きさ。
天守台石垣 本丸土塁 空堀



やまなかじょう

山中城 (静岡県三島市山中新田)
天守:なし  日本100名城
戦国期の主な歴史
永禄年間(1558~1570)に小田原城の支城として北条氏康が築城する。
1590年 小田原征伐。豊臣軍の猛攻の前に半日で落城。その後、廃城。
(メモ)
北条流築城術の特徴である障子掘、畝堀が芸術品レベルで保存されている。
東海道を取り込んだ縄張りで、現在も同じように道に分断されたようになっている。
半日で落城したが、大変な激戦で、豊臣方も一柳直末ら多くの武将が討死している。
二の丸虎口 障子堀 畝堀



さのびじゅつかん




蜻蛉切 (静岡県指定文化財)
岡崎美術博物館の企画展にて撮影
佐野美術館 (静岡県三島市中田町)

<見れた展示物> 紹介している展示物は常に見れるとは限りません。


本多忠勝所持 大笹穂槍 銘 藤原正真作 (号 蜻蛉切) (静岡県指定文化財)
 天下三名槍のひとつ。徳川四天王のひとり・本多忠勝が所持したことで知られる。号の「蜻蛉切」は、穂先に止まった蜻蛉が真っ二つに切れたという逸話に由来する。

太刀 銘 一  (国宝)
 「長篠一文字」とも呼ばれる。長篠の戦いで活躍した徳川家臣・奥平信昌が、織田信長より拝領した。

刀 金象嵌銘 備前国兼光/本阿弥(花押) (重要文化財)
 藤堂高虎、豊臣秀吉が所有したのち、徳川将軍家に伝わった太刀。

刀 銘 繁慶 (静岡県指定文化財)
 徳川家康のお抱え鉄砲鍛冶・野田清堯の作。清堯は刀工としても名を馳せ、繁慶と名乗った。



にらやまじょう


韮山城遠景
韮山城 (静岡県伊豆の国市韮山)
天守:なし
戦国期の主な歴史
1493年 北条早雲、伊豆平定の拠点とするため、整備する。
1519年 北条早雲亡くなる。北条氏綱、居城を小田原城に移す。
1590年 小田原征伐。北条氏規豊臣秀吉の大軍に対し、籠城するが、降伏開城。
同 年 徳川家康、関東移封。徳川家臣・内藤信成が入城。
1601年 内藤信成、駿河に移封。その後、廃城となる。
(メモ)
一部、高校の敷地となっているが、縄張り図通りの遺構が残っている。
すぐ近くに韮山代官所。少し離れた所には世界遺産に認定された韮山反射炉もある。
本丸跡 二の丸跡 三の丸に残る土塁